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宮地兵次郎
(宮地兵次郎寛朋)
家系

画家・宮地志行(景樹)の家系図を
そのまま流用しています
宮地志行の祖父が宮地兵次郎



宮地兵次郎(10代)(1838-1910)は
日吉村三浦弥五八の五男であり
養子として宮地家に入籍している
生家(三浦家)は
日吉村(現在の日吉町半原4865)
宮地家は、日吉村422番戸
(現在の日吉町半原4982-2)

宮地兵次郎は、明治14年(1881年)
日吉村戸長となる
(白倉の小栗忠左衛門が
大正8年に出した日吉郷土誌に依る)

兵次郎の妻は
日吉村南垣外の柘植河内守(禰宜)図次の
長女津宇(つう)(1843-1925)


以下、先祖代々家系

(9代) 兵次郎の父
宮地市兵衛(1816-1883)、
江戸時代に半原村の庄屋
明治6年美濃国土岐郡半原村の戸長。
市兵衛の妻は、ふで(1821-1898)

(8代)
宮地市蔵
 安政二年十一月亡(1855年)
市蔵は棟梁であった。戒名は大棟祖梁信士
妻は大應祖玅大姉
日吉神社の建立記録(棟札)にその名が残っている
天保2年(1831年)3月8日とある(市蔵23歳)
(半原物語p25)
半原物語は別ページ「資料・文献」に掲載

(7代)
宮地求馬
 天保七年9月亡(1836年)
妻は松山橾貞信女

(6代)
宮地金松
 文化十四年七月十八日亡(1817年)

(5代)
宮地安之焏
 天明五年七月亡(1785年)
安之丞は禰宜(宮司)であった
(半原物語p25)
半原物語は別ページ「資料・文献」に掲載

(4代)
宮地隼人
 宝暦十三年九月亡(1763年)

(3代)
宮地九郎右衛門
 寛保三年三月亡(1743年)

(2代)
宮地九郎左衛門
 元文元年十月亡(1736年)

初代(1代)
宮地市之焏
 享保八年五月亡(1723年)
(本家十一代
宮地九郎左衛門次男宮地市之焏、とあり、
この時に分家している。
一代後の九郎左衛門とは別)


11代 宮地文一 妻 けい
12代 宮地志行 妻 光枝
13代 宮地完自 妻 智恵子


 宮地家の家紋は「七曜」である



 2019年9月27日
偶然にも千村清文氏より便りをいただいた。
(以下、抜粋)



宮地志行さんとその父親(宮地文一)の合同葬儀で
弔辞を読んだのは、ワタシの祖父です。

宮地家は日吉村(今の岐阜県瑞浪市日吉町)で
代々庄屋をしており、
ワタシの曾祖父まではそこが
我が家の知行地の一部でした。
そんな関係で、志行さんは
我が祖父の家(当時は東京)にも
よく寄ったとのことです。

我が家にも宮地志行さんの作品がありました。



 (知行地とは)
封建的な主従関係成立の要件として
権力者が服従者に分封した土地。
とくに、江戸時代、
大名が家臣に与えた土地をいう。
給地(給知)、給領、給所、知行所ともいう。

宮地志行の妻・光枝は
瑞浪市稲津町小里の加知家から嫁いでおり
加知家の分家の娘が
千村家の分家(現在は横浜在住)に嫁いでいる。
すなわち宮地家と千村家は親戚関係にある。



宮地兵次郎に贈られた感謝状



明治27年3月9日
宮内大臣子爵土方久元
(後に爵位は伯爵となる)から

1894年(明治27年)3月9日、
明治天皇「大婚二十五年祝典」が催された。

この時に宮地兵次郎は祝いの品を贈っている。
狩野洞春(1747‐1797)筆の
「鶴の図」雙幅(二つで一組の掛軸)。

(明治天皇は)御満足被 
思召(おぼしめされ)候事、とある。



宮内大臣からの感謝状の後に、
岐阜県土岐郡長従七位(後に従六位)
水谷弓夫から贈られた雙寉詞。
1894年12月付。

雙寉(読み=そうかく)詞。
雙は双、寉は鶴。文末の稾は稿。
甲午(きのえうま)は干支(かんし、えと)の1つで
60年周期、これは1894年にあたる。

宮地兵次郎が拝領した宮内大臣の
礼状は当家のみならず
土岐郡にとっても光栄なことで喜ばしい
という内容。


宮地市兵衛(兵次郎の父)の記録

市兵衛は美濃国土岐郡半原村の戸長、
半原村の庄屋であった。
(今の岐阜県瑞浪市日吉町半原)

美濃国土岐郡半原村掟米総計帳
(明治6年/1873年酉1月)
“美濃国土岐郡半原村戸長 宮地市兵衛”
の記載

 

作恐御尋ニ付御達奉申し候事
(慶応2年/1866年卯6月)

“半原村庄屋 市兵衛”
の記載がある

 













宮地家先祖の記録

宮地重勝頌徳碑
(瑞浪市日吉町半原)


昔からあった石碑(左)を
昭和28年に再建(右)した
左の石碑は古くて文字認識困難ではあるが
「宮地重勝隠居士」と読める
その側面には年号らしき
文字が有るが読み取り困難



宮地重勝頌徳碑(背面)

宮地氏ハ代々土岐氏
ノ臣ニシテ天文十一
年頼芸亡ブルヤ鶴ケ
城代宮地九郎左衛門
藤原重勝半原自邸ニ
隠遁シ農ニ帰スコレ
即チ祖ナリ

昭和二十八年十月再建之

(天文11年=1542年)
(昭和28年=1953年)

背面の下段には再建にかかわった
宮地家の関係者の名がある

宮地傳平
秋義
賢二
文嘉
完自
芳樹
広重
醇造・瑞浪
冬美・瑞浪
享吉・熊本
義郎・釜戸
正美・埼玉

利夫・多治見
實・多治見
美一・日吉
加名一・武並
信行・名古屋
鶴雄・土岐津
繁隆・駄知
芳計・瑞浪
季志男・津
秀雄・泉
三木雄・泉

再建当時に半原地区に家が在るのは
上から記された7家だが
2020年に在住者が居住しているのは
3家となっている



村社日吉神社
御祭神・神社由緒




日吉神社リンク

 御祭神

大山咋神又の御名山末大主神
大神は大年神の御子に生まし武威
様々国家鎮護の神として又殖産
興業酒造等の各方面に亘(わた)る守護
神として宏大の神徳を垂れさせ給
へるは史實の明窓する処である

 當社の由緒

當神社の創建は記録散逸して明瞭
を欠くと雖(いえども)在者土岐氏の家臣宮地
某なるもの半原に住し子孫の為に
江州比枝(日枝)の大神を勧請したるを土地
の人々神徳を仰ぎまつりて産土神
とあがめし敬い宮地家は禰宜と
して代々奉仕したのは慥(たしか)な事實
である現今の社殿は天保貮年
氏子の丹精によって建造昭和六年
百年記念の式祭を挙げたのである

-----
(天保貮年=1831年)
(昭和六年=1931年)
-----
この「村社日吉神社 御祭神 當社の由緒」
の筆は宮地文一である。

(記載文の説明)
大山咋神(おおやまくいのかみ、
おほやまくひのかみ)は、日本の神
である。
別名 山末之大主神
(やますえのおおぬしのかみ)。
大年神とアメノチカルミヅヒメの間の子である。

名前の咋「くい(くひ)」は杭のことで、
大山に杭を打つ神、
すなわち大きな山の所有者の神を意味する。
『古事記』では、近江国の日枝山
(ひえのやま、後の比叡山)
および葛野(かづの、葛野郡、
現京都市)の松尾に鎮座し、
鳴鏑を神体とすると記されている。

比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、
天台宗および延暦寺の
守護神ともされた。
比叡山の王という意味で
山王(さんのう)とも呼ばれる。
天台宗が興した神道の一派を山王神道と言い、
後に天海が山王一実神道と改めた。
太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から
大山咋神を勧請して日枝神社を建てた。
江戸時代には徳川家の氏神とされ、
明治以降は皇居の鎮守とされている。

比叡山の麓の日吉大社
(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る
全国の日枝神社の総本社である。
日枝神社には後に大物主神が勧請されており、
大物主神を大比叡、
大山咋神を小比叡と呼ぶ。
山王は二神の総称である。
大物主神は西本宮に、
大山咋神は東本宮に
祀られている。

そのほか、日枝神社(東京都千代田区)、
松尾大社(京都市西京区)
および全国の日枝神社、
松尾神社で祀られている。
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大年神・御年神
日本神話では、スサノオと神大市比売
(かむおおいちひめ・大山津見神
の娘)の間に生まれた大年神
(おおとしのかみ)としている。
両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、
これも穀物神である。
また、大年神と香用比売(カヨヒメ)
の間の子に御年神(みとしのかみ、
おとしのかみ)、孫に若年神
(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の
神とされる。

古事記における記載
大年神は他に多くの神の父とされる
-----
江州(日本)=日本の
律令国である近江国の別称。
禰宜=宮司を補佐する職。
また、一般に神職の総称。




 



(関係古文書)

 

文中にある「神箆城(こうのじょう)」とは
瑞浪市土岐町に所在する
鶴ヶ城(神箆城)のことであり
正中の変の土岐十郎頼兼は
鶴ヶ城の城主

(写真右)
元亀貮年(1571年)之比
(頃・コロ)濃州(美濃国)
土岐郡神箆城主土岐
三兵信友家来
宮地刑部(ギョウブ)家重
弟兵内利家

(写真左)
刑部世忰
宮地彦六家光同弟兵助
両人共ニ少(シバラク)之内明智ニ住後
土岐郡神箆之内櫻堂江引越其後又市原
村ニ住ス
彦六世忰
宮地彦左衛門家久
其世忰喜兵衛家次
其世忰喜兵衛家信
其世忰喜兵衛政家
次々
宮地喜兵衛尉源家友
宮地喜兵衛尉源家政
宮地喜兵衛尉源家雄
宮地喜兵衛尉源家偃



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